💡 はじめに:なぜ「言葉」と「配慮」が鍵となるのか
退職勧奨や懲戒処分は、企業経営において避けられない場面であり、その実施は従業員の人生に大きな影響を与え、企業の信頼性やレピュテーションに直結します。特に、不適切な手法やワーディング(言葉遣い)は、後の労働審判や訴訟といった法的リスク、さらには社内の士気低下や優秀な人材の流出を招きかねません。
人事担当者は、単なる手続きの履行者ではなく、会社の利益、従業員の人権、そして法令という三つのバランスを緻密に考慮するプロフェッショナルとしての役割を果たす必要があります。このプロセス全体において、心証を左右し、紛争を防ぎ、あるいは解決へと導くのが、他でもない「言葉(ワーディング)」です。本稿では、人事が留意すべき多角的な視点と、対話および文書における具体的なワーディング戦略について、深く掘り下げて論考します。
Ⅰ. 経営的・戦略的観点:判断の正当性と会社の未来
1. 会社の状況:判断における「経営合理性」の検証
退職勧奨や懲戒処分は、単に目の前の問題を解決するだけでなく、中長期的な会社の成長に資するかという視点から検証されなければなりません。その判断は、将来的に会社が目指す組織体制や事業計画に対して真に必要不可欠なものでなければなりません。例えば、安易な人員削減を目的とする退職勧奨は、残る従業員の不安を煽り、かえって生産性低下や優秀な人材の離職を招くリスクがないかを事前に評価する必要があります。
懲戒処分の場合も同様に、その基準とプロセスが公平・公正であることを明確に示すことで、かえって組織の規律を保全し、透明性を高める効果が期待できます。この判断プロセスには、紛争リスク(訴訟費用、解決金)や時間的コストといったコスト・リスク分析が含まれ、今回の判断による経営メリットがこれらのコストを上回るか、あるいは早期解決に向けた和解や円満退職の道を探る方が、結果的に会社の損失を最小化しないかという視点が不可欠です。
2. 「本人にとって良いか」という究極の配慮
一見、会社と従業員は利益が相反するように見えますが、最終的に「納得感のある着地」を見つけることが、会社のレピュテーションを守り、紛争を避ける最善策となります。退職勧奨の場合、単に去ってもらうだけでなく、キャリアの再設計支援を提供する姿勢が極めて重要です。再就職支援(アウトプレースメント)の提供や、次のステップに進むための猶予期間、退職金の上乗せといった「次の機会」を支援する姿勢を示すことが、本人の心証を大きく改善します。
ここで重要なワーディングは、「あなたのこれまでの貢献に感謝している。この会社では難しくなってしまったが、あなたの能力を活かせる次の場を見つけてほしい」という、ポジティブな未来志向のメッセージを込めることです。懲戒処分であっても、「更生」や「学び」の機会として捉え、再発防止に向けた具体的な指導や、改善の機会を与えるための部署異動などを提示することも考慮し、本人の尊厳を傷つけないよう細心の注意を払う必要があります。
Ⅱ. 法的観点:リスクを回避するための絶対遵守事項
1. 退職勧奨:「強制」と「合意」の峻別
退職勧奨はあくまで「合意解約の申し込み」であり、「解雇」とは異なることを明確に理解し、不当な圧力を避けることが法的なリスクヘッジの根幹です。勧奨の適法性を保つため、執拗な勧奨、深夜に及ぶ面談、密室での拘束などは「退職強要」と見なされ、不法行為となり得ます。面談は原則として数回に留め、長時間にならないよう配慮し、いつでも退席できる環境を整える必要があります。
また、「辞めなければ懲戒解雇にするぞ」といった脅迫的な表現や、「君には居場所がない」といった人格否定と受け取られる表現は、即座に法的な問題を引き起こします。会社が解雇に踏み切れるだけの客観的で合理的な理由と、社会通念上の相当性がある場合のみ、その事実を淡々と説明します。ただし、あくまで「解雇の可能性」を説明するに留め、「退職届の提出」は本人の自由な意思に委ねるスタンスを堅持しなければなりません。
2. 懲戒処分:「就業規則」と「適正手続」の遵守
懲戒処分は、労働契約法第15条に基づき、客観的に合理的な理由があり、かつ社会通念上相当と認められるものでなければなりません。まず、懲戒事由、処分の種類、程度が、事前に定めた就業規則に明記され、従業員に周知されているかを確認します。就業規則にない懲戒処分は原則として無効です。また、同一の非違行為に対し、二度処分を下す「二重処罰の禁止」にも留意します。
最も重要なのは「弁明の機会の付与」です。本人に対し、事実の確認と弁明の機会を必ず与えなければなりません。これは適正手続(デュー・プロセス)の核心であり、客観的な証拠に基づき、本人の言い分を公平に聞き取る姿勢が必要です。そして、懲戒事由となった事実を立証するための客観的な証拠を徹底的に収集・保全します。主観的な評価や噂に基づく処分は、後に容易に覆されることを肝に銘じなければなりません。
Ⅲ. 心証・対話テクニック:納得感を生む「言葉」の技術
1. 傾聴(アクティブ・リスニング)の徹底とI(アイ)メッセージの活用
感情的になっている相手に対し、会社側の主張を一方的に押し付けることは最悪の対応です。まずは相手の怒り、悲しみ、不安といった感情を否定せず、受け止める姿勢を言葉で示します。「大変辛いお気持ちは理解できます」「そう思われるのも無理はありません」といった感情の受容を言葉で示すことが、対話のスタートラインとなります。
さらに、「I(アイ)メッセージ」を活用し、「あなたが悪い」というYou(ユー)メッセージではなく、「会社としては、~という状況で対応に苦慮している」という形で、会社の立場や判断に至った経緯を説明します。例えば、「あなたの成績不振が問題だ」ではなく、「会社としては、現状の営業成績の状況がこのまま続くと事業計画の達成が困難になると懸念している」といった表現を用いることで、客観的な状況に話を戻しやすくなります。
2. 適切な「緩衝材」としてのワーディングと否定表現の回避
厳しい事実を伝える際、「緩衝材(クッション言葉)」を用いることで、メッセージの衝撃を和らげ、相手の聞く耳を持たせることができます。本題に入る前には、「まずは、これまでの~さんのご貢献に心より感謝申し上げます」といった感謝の言葉を必ず入れます。退職勧奨の提示では、「誠に申し上げにくいのですが、貴殿のキャリアを鑑みて、新たな道をお探しいただくことをご提案せざるを得ない状況です」という、提案の形を取ることが極めて重要です。
また、従業員の希望や感情を否定する言葉は、心証を著しく悪化させます。「それは無理です」「会社の規定ですから」といった強い否定表現は避け、「ご要望は承知いたしました。社内で持ち帰り、実現可能性を検討させていただきます」など、一度受け止める姿勢を見せます。その上で、「検討の結果、誠に恐縮ながら、現状ではご要望の全てにお応えすることは難しいという結論に至りました。その理由としては…」と、論理的な説明を丁寧に行い、対話を閉じないことが重要です。
Ⅳ. 懲戒処分通知書における文書のワーディング
1. 通知書に必須の構成要素と情状の考慮
懲戒処分通知書は、法的証拠として扱われるため、そのワーディングは厳格でなければなりません。通知書には、処分の種類と就業規則の具体的な条文を正確に記載する処分名と適用条文の明記が必須です。さらに、懲戒事由(事実)の具体的記載として、5W1Hを明確にし、客観的事実のみを記載します。抽象的な表現は避け、事実を裏付ける内容とします。
また、処分に至った理由と情状の考慮を明記し、「なぜこの処分が相当なのか」を説明します。「当該行為は会社に〇〇の重大な損害を与え、就業規則第〇条に定める懲戒事由に該当する」ことを明記するとともに、「これまでの貢献や、本人による反省の弁を考慮し、最大限斟酌(しんしゃく)した結果、懲戒解雇ではなく諭旨解雇と判断した」など、配慮の過程を明記することで、処分の相当性を補強し、紛争時の企業の誠実性を担保します。
2. 「懲戒解雇」と「諭旨解雇」の使い分けのワーディング
最も重い懲戒解雇は、即時解雇となり退職金が不支給または減額となることが多く、通知書では、非違行為の重大性を最も厳しく表現する必要があります。一方、諭旨解雇は、会社が「解雇事由に該当するが、自発的な退職を促す」処分であり、自主退職を促すことで退職金の一部が支給されるなど、円満な着地の道を残すものです。通知書では、「貴殿のこれまでの貢献に鑑み、自主的な退職を促す。〇〇日までに退職届が提出されない場合は懲戒解雇とする」といった救済措置のニュアンスを込めるワーディングが用いられます。
Ⅴ. 関連論点と深堀り:具体的な事案への対応と言葉
1. パワハラ・セクハラ事案における懲戒:公平性と安全への配慮
ハラスメント事案における懲戒は、加害者だけでなく、被害者への安全配慮義務を果たすための言葉遣いが非常に重要です。被害者へのワーディングでは、まず「この度は大変辛い思いをさせてしまい、会社として心よりお詫び申し上げます」と、謝罪と共感を伝え、さらに「貴殿が安心して働ける環境を最優先で確保します」と、安全へのコミットメントを明確に伝えます。懲戒決定後には、「今回の決定は、二度とこのような事態を起こさないという会社の強い決意を示すものです」と、会社の方針を明確に伝達します。
加害者へのワーディングでは、感情的にならず、「貴殿の行為は、就業規則およびハラスメント防止規定に照らし、〇〇の規定に違反すると判断されました」と、規定に基づき淡々と事実を伝え、「今回の行為が被害者の方に与えた精神的苦痛の大きさを真摯に受け止め、深く反省していただきたい」と、倫理的な責任にも言及し、反省を促します。
2. 精神疾患による休職者への対応:治癒の判断と復職支援のワーディング
精神疾患による休職者の対応は、「病気への理解と配慮」と「企業の安全配慮義務・債務不履行リスク回避」のバランスが非常に難しい局面です。「〇〇医師の診断書に基づき、貴殿のご意見も踏まえ、慎重に復職の可否を判断させていただきます」と、客観的な医療情報を重視する姿勢を言葉で示します。
復職面談時には、「医師から就労可能と判断されておりますが、復職後、以前と同等の業務を継続的に行える見込みについて、貴殿のお考えをお聞かせください」と、治癒の程度と業務遂行能力を本人の言葉で確認することが必須です。やむを得ず退職を促す際のワーディングは、「誠に心苦しいのですが、就業規則に定める休職期間が満了となり、残念ながら復職は困難であるとの判断に至りました。まずは療養に専念していただくため、退職という形を取らせていただきます」と、規定と本人の健康を理由に配慮を示す言葉で伝えます。
3. 退職合意書の文言:将来のリスクを消滅させる法的効力のあるワーディング
退職勧奨により合意退職に至った場合、必ず「退職合意書」を取り交わしますが、この文書の清算条項の文言が、将来的な残業代請求やハラスメントによる損害賠償請求を防ぐ最後の砦となります。
清算条項には、「甲(会社)および乙(従業員)は、本合意書に定めるもののほか、本契約(労働契約)に関して、相互に何らの債権債務がないことを確認し、今後一切、名目のいかんを問わず、相互に請求を行わないことを合意する」という、法的効力を持つ正確なワーディングが必要です。さらに、「本合意書締結により、乙は甲に対して、未払賃金、残業代、退職金、損害賠償など一切の請求権を放棄する」という特記事項を明確に入れることで、将来のリスクを限りなくゼロに近づけ、会社の法的な安定を確保します。
🔚 まとめ:人事担当者に求められる「覚悟」と「人間力」
退職勧奨や懲戒処分は、法律という冷徹なロジックと、人間という温かい感情が最も激しくぶつかり合う局面です。人事担当者は、法令遵守という鉄の鎧を身にまといながら、対話テクニックと共感の心という柔らかな剣を使いこなすことが求められます。
正しい段取り、適切な言葉(ワーディング)を選ぶことは、単なるリスク回避ではなく、組織の倫理観と人間力を示す最大の機会なのです。会社の状況、本人の心証、そして法的な正当性という多角的な視点を統合し、常に誠実かつプロフェッショナルな態度で臨むことが、結果として会社と従業員の双方にとって、可能な限り「より良い着地」を見つけ出すための唯一の道であると言えます。